濃姫の代役が決まった件。

麻薬取締法違反容疑逮捕された沢尻エリカ氏が演じていた濃姫の代役が、
川口春奈氏に決まったとのこと。
まずは、めでたいと言っておきたい。

本来の私の立場は、茂木健一郎氏に近い。
作品は作品だし、犯罪は犯罪であり、
独立事象としか言えないと考える。
なので本来は撮影済み分に関しては、
取り直される必要はないという立場である。

とはいえ、NHKが取り直すと決めた以上、
私ごときの意見には何の意味もない。

なので、ちょっとだけ書きたいことを書いてみたい。
つまり、脚本を書き換えてみないかという提案である。

濃姫が今回重要な役回りになったのは、
主人公明智光秀と同じ美濃出身であり、
全く明智光秀と縁もゆかりもない尾張人たる織田信長への
紹介者という立ち位置だからだろう。

でもこの縁、あったのか、と思っている。
根本史料たる「信長公記」や一次資料にそんなものがあったなんて、
ついぞ知らない。
「絵本太閤記」などの江戸期の講談本でにわかに作られた話であり、
戦後の空間では司馬遼太郎氏の「国盗り物語」で敷衍され、
今や常識化されているだけでは、と感じる。

今の時代に即して語るなら、
地縁血縁に縛られず、常識を疑った織田信長が、
天下人の上り詰めた点を重視して書いた方が良い。
丁度、IT企業の社長のごとく。
純粋に才能だけの社員光秀が、同僚の秀吉とともに
出世していくのだが、に絞った方が賢明だ。

講談調の濃姫の時代はそろそろ終わった方かよくないか。

 

「4分間のマリーゴールド」を観てない件。

TBS系の「4分間のマリーゴールド」を観るのをやめた。
話が違うと思ったからだ。
あれは恋愛ドラマではなく、SFドラマだ。
そこが間違えている。

主人公たる救急救命士の花巻みこと(福士蒼汰)は、
手を握った相手に対して、死の直前の4分間を映像として、
感知できる。
つまり、未来予測能力がある。
そしてその主人公が、義理の姉たる花巻沙羅(菜々緒)が、
一年後死ぬことを識っており、煩悶しているところから話が始まる。

まあ、未来改変型ドラマですよね。
君の名は。」とか「タイム・リープ」とか「いま、会いにゆきます」とか
この手の作品は多数創作されているし、名作も多数ある。

一話は良かった。
彼が仕事熱心なのは、
透視できた死ぬ運命の救急患者の命を救うことが、
結果として、義姉の命を救えると考えているからだし、
傍目にもそれは正しい。

続いては、実際に透視できた救急患者の命を救えるようになっていくはずだった。
そして、助命に成功した救急患者が、
実はバタフライエフェクトを起こし、
却って義姉の運命改変を邪魔してしまう、
という話でなければ、SFドラマとしての展開の愉しみはない。

2話から、そうなってくれていない。
単なる恋愛ドラマなのね。
うん。
中年男性的には、まあ、どうでもよくなったということでした。

年を取ると頭が固くなるなあ、という話。

年を取ると頭が固くなるなあ、という話。
以前、出雲大社に参拝した話をした。
ついでだから、名物の出雲そばを食することとした。

参拝の後、目に入った蕎麦屋に入ったのだが、
そこが、まあ、よろしくなかった。
メニュー間違いをする、妻のそばにだしが利いていなかった。
などなど。

晩ごはんの方も、
竹輪がゴムタイヤのごとき硬さで、
娘は吐き出してしまったくらいだった。
この日は、食に恵まれなかったようではあった。

で、ついに「食べログ」のアプリをインストールした。
うん、最初から入れとくべきだったね。
食べログ」のコメント欄見ていたら、
あの店には行かなかったわ。

身近な場所では「食べログ」は不要だったのだ。
観光客的視点はいらないので。

うん、今後は「食べログ」必須にしよう。

PS ついでに「クックパッド」もインストールしたのだが、
見づらい。
キッコーマン」や「ミツカン」のサイトの方が見やすい。
これも私の頭が固いせいなのだろうか。

写真集のはなし7

麻生久美子写真集「久美子」

麻生久美子・平地勲

 

A4版上製;78ページ

出版社:スコラ   

発売日:1995/12/18

サイズ:30.5×22.2×1.3cm

 

時効警察」が帰ってきた。

時効警察はじめました」という名前になって。

ある種、カルト的人気の高い作品であるし、

私ごときの意見など不必要であろうし、作品の分析はしない。

 

ここでは、麻生久美子氏を語る。

 

女優としては、若干だけ不遇に思える。

あれだけの美貌を誇りながら、

代表作は深夜枠の「時効警察」シリーズなのか、

映画の「モテキ」(2011)なのか今一つわからない。

何とはなしにだと、神木隆之介氏との共演した、

「Renta!」のCMのジャージを着たお姉さんが代表作ではと言いたくなってはくる。

 

で表題の写真集の話になる。

何回か前、ブルセラの起源について若干語った。

1980年代末にセーラー服とブルマ姿が合同する形で、

写真集の中に取り込まれて来たということだ。

「クリーム」が1992年に創刊されていたりもする。

まあ、ブームが来ていたわけだ。

 

そのブームの最中、1995年に作られた写真集がこれだ。

もし「女学生写真集」というジャンルがあるとするなら、

この作品はその頂点ではないかと考えている。

 

文法は簡単。

学校の中で、制服姿の写真を撮り、

窓辺から、体育の授業の姿の彼女を見つめている。

要は学校だから、制服だし体操服なのだ。

ある種のリアリティだろう。

 

写真集は、彼女のプライベート写真を挟み、

後半に移る。

 

下校後のデートタイムでは、

私服姿の彼女と接近して戯れている。

学校より近接ぽいのも読み取ってくれると嬉しい。

ミニのワンピースで、黒のキャミソールで。

当たり前のことだが、制服姿ではない。

 

「彼女とデートに出かけ、嬉しくてカメラを向けた風味」の完成形とは言える。

 

後、ブルセラ系の写真集が批判を受けるのには、理由がなくはない。

いつも常に制服や体操服なわけないではないか。

1990年代後半以降、でもそんな写真集結構多かったりもする。

 

この写真集傑作です。

もし代表作にお悩みでしたら、

麻生久美子氏にお願いがあります。

これ、デジタル配信しませんか。

その価値はあります。

 

手首痛い系…痛いけい?

1980年くらいから2000年にかけてが
女性写真集のピークだったというのが、
このブログで私が主張していることである。

が当然、傑作ばかりだったわけではない。
というか、2:8くらいで傑作のほうが少ないと思っている。

さて、1980年代の駄作については、
既に「二泊三日系」という言葉で説明してみた。
要はスタッフにとって、撮影が主なのか、
海外のバカンスが主なのかわからない作品群のことである。

1990年代の駄作に関しては、違う特徴がある。
1.重い。
紙質が向上し、上製(ハードカバー)の時代になり、
重量が1㎏を越えて、何なら3Kgを上回るものさえある。
いや、興奮してるんですよ、利き腕はあるものを握ってるんですよ。
で、余っている手でダンベルを持てっというのですか。
手首骨折しちゃいますよ
(前述の小栗香織氏の写真集をいま量ったら403gでした)。

2.でかい。
手元にある金沢文子・川人忠幸「カーマ・スートラ」(2000年)は
縦38㎝あります。
冬場コタツで、とか思っていると、テーブルからはみ出します。
いや実際、古本屋的にはどこに陳列すればよいのかわかりません。

3.写真家の名前が目立つ。
女性モデルより、写真家の名前が大きい場合がある。
篠山紀信氏とか荒木経惟氏とか加納典明氏とかだったりするが。
確かにこのブログでも写真家には触れている。
しかし、本来は被写体の女性が重要でしょ。
この時代は何事か間違っていた。

4、妙にアート。
でも、最大の問題はこれ。

「二泊三日系」はある意味間違っていない。
水着でパシャリ、脱がせてパシャリ、なのであるから、
読者に対するメッセージに狂いはない。
ある瞬間、疑似彼女として存在した写真集は、
確かに男性諸氏の心に届いたことだろう。

一方、1990年代の写真集のある種の罪は異なる。
皆様もこの時代に生きていた方なら、ご記憶があることだろう。
蛇をまいた熟女が表紙の写真集、
モノクロの画面にお尻だけ浮かび上がっている写真集
(そう言えばこの時代モノクロが多かった印象がある)、
扉だけが妙に印象的な写真集、エトセトラ。
どこに興奮すればよいのだとおもいませんでしたか?
今風に言えば「誰得」でしょうね。

いまふと思い出しったが、
この扉、セクシーでアートだったのか、
この年の豊島園に陳列されていたはず。

もちろん、誰が得したかには想像がある。
「脱がせ屋」と呼ばれたフィクサーの面々である。
借金とかスキャンダルを抱えた女優、
あるいは妙に自意識の高い女優を口説き落とし、
出版社に紹介することで数百万ゲットだぜ、だった。
だから、この手の写真集の価格は高かった。

これらの写真集は、有名女優たちのことが多いから、
書店(まだ、ネットはなかった)の売り場で、
平積みされたり、面陳列されたりした。
今宵の疑似彼女を求める男性諸氏にとって、
関係のない場所となってしまうことになりがちではあった。

他の要因ももちろんたくさん、たくさんあるのだが
また、罪などというきつい言葉を使ったが、、
写真集時代の黄昏を告げる一要因にはなったと思っている。

町おこしに必要なものは。

先日、妻と娘で出雲大社にお参りに出かけた。
まあ、マイクラ好きの娘が和風建築を見たいということが、
きっかけだったりする。
天皇陛下即位の礼大嘗祭の間であったおかげなのか、
無茶苦茶混んでいた。
が、今回はその話ではない。

岡山から出雲に出かけるにあたり、
個人的に行ってみたいところがあった。
旧大社駅である。

以前、町おこしについて若干書いた。
寂れた商店街で20年とか商売していたりするもので、
考えてしまう体質になってしまった。
そこで気づいたことがある。
B級グルメゆるキャラも、
町おこしには(ほぼ)全く寄与しない。
これは、その町の住人ではない人に対して、
「ねえ、この町いいでしょ」
という媚びる視線を投げかけるだけだからだ。

観光客とか都会の人の視線は、
田舎の町おこしとの関与度が低い。
畢竟、定住者がそれを決める。
要は移住されてしまうと失敗だし、
移住してくれれば成功といえる。

このポイントの最大は、
ライフライン(インフラ)の整備であるし、
ついで、ある種の産業振興となろう。
ここに関しては、いくばくかの評論家が触れているが、
かなりの難解であり、今回は私見は述べない。

ここで触れるのは、町のシンボルについてである。
観光客向けでない町の具体的な象徴的建築は、
若干だけそこの居住者を居残らせる効果があると考えている。

一番良いのは、神社仏閣の整備である。
ただし、戦後空間は政教分離の原則があり、
行政が予算を組んで管理することはできない。
城という手もなくはない。
が再建されるに値する城跡を持つ田舎は少ない。

そこで駅だ。
JRグループ第三セクターは結構公共性に鑑み、
意外と赤字でも鉄路を残している。
駅にはその地域の出入口の機能が、今でもわずかだがある。
ここをきれいにしない手はない。
観光客向けとしての駅として再建するのではなく、
かつてあった明治・大正期の建築を作ろう。
そして、鉄道会社ではなく、地域の住人で管理してみよう。

廃線された大社駅にたどり着いたのは、
日が沈んだ17時過ぎだった。
娘の目が急に光ったし、なんか妻は浮かれていた。
案内の方も帰られたのに、
何台もの車が来て、写メを撮っては帰って行っていた。
いい駅だった。

町おこしについても話に来ませんか。
岡山で古本屋をしています。

 

 

山の本いっぱい

古本屋の醍醐味

山の本を三千冊ほど買った。

珍しく面白い本は眺めているだけでもうれしい。

性に合っているのだろう。

そういう意味では古本屋は好きだ。

 

山の本が大量にネットに出品されていたら、

当方かもしれません。

岡山にお越しの際はお立ち寄りください。

あとご自慢のコレクションがあれば拝見させてください。